帽子人生のはじまり

大阪市立東商業高等学校を卒業して、1956年(昭和31年)4月に当時父親が製造部門で工場長を勤めていた中央帽子株式会社(以下:中央帽子)に入社し、営業部に配属となります。

毎日の仕事は、仕上がった帽子を倉庫へ運び、商品の管理と出荷、配達、また問屋様に買っていただいた帽子見本が型崩れを起こした場合は返却していただき、それを直すといったものでした。
(当時は出張販売が多く、運んでいるうちに帽子見本の型が崩れることがよくありました)

配達はリヤカーでおこなっていましたが、それもほんの3ヶ月の間でした。
西井茂雄社長(先代社長)は陸軍時代に自動車部隊で中隊長をされていたこともあり、私も自動車の免許を取りにいくよう指示を受けます。
昭和31年7月21日に自動車運転免許の試験に合格し、運転免許を取得することができました。
それからは今までとは打って変わり、他社にはない自動車での配達が出来るようになり、そのおかげで楽しく仕事をすることができました。
他メーカーでは「自動車で配達する所はつぶれる」等、噂になっていたのを憶えています。(当時配達に自動車を使うのは中央帽子1社だけでした

西井茂雄社長の方針は

  1. すぐ実行しろ · · · モタモタして遅いのはだめ(巧遅は拙速に如かず)
  2. 一度やってみよ · · · 出来ないという言葉を嫌われた
  3. 声は大きくはっきりとモノを言え
  4. 新しいやり方に挑戦せよ
  5. 仕入は材料を製造している所より仕入れよ
  6. 市場の動きをいち早く察知せよ · · · 市場調査力第一

以上のようなことを何度も何度も言って指導しておられました。

ヒット商品の誕生

1957年(昭和32年)頃になると、営業の仕事が本格的になってまいりました。

当時の商品は“スナップ型”と“メトロ型”の2点で、生地は綿100%バーバリーを使用していました。
染色は浜野繊維工業様のインダンスレン染色(色落ち色ヤケしない)、今枝染工様の硫化染染色(普及品)、加工方法は浜野繊維工業様が染色した60番双糸に上平工場長の指導のもと防水加工(スーパーシリコーン全体加工:完全防水)を施しておりました。
帽子が仕上がってからパンを焼くように防水を塗布し、キュアリング加工(焼く)して完全防水、という流れです。

これは、当時としては画期的な商品でした。
帽子頭部のくぼみ部分に水を入れた中で金魚を泳がせることに成功し、これを宣伝に使います。

中央帽子創業以来の大ヒット商品、スナップ型とメトロ型でスーパーシリコーン完全防水加工された帽子を売って売って売りまくり、問屋様を通じて全国小売店様約2,200軒より注文をたくさんいただくことができました。

さらなるヒットを目指して

次に西井茂雄社長の発案で、スーパーシリコーン完全防水加工のスナップ型とメトロ型の宣伝を行います。

それは、全国の小売店様と共同で費用を折半し、付近にある映画館の幕間に帽子のスライドを行うといったものです。
これが当たり、小売店様も気を良くされたようでした。

私も西井茂雄社長より名古屋へ毎月2回、日帰りの出張を命じられました。
大阪駅を深夜11時30分に出て、早朝5時40分名古屋到着という今では考えられないような出張でしたが、大変よく売れたので少しの疲れも感じませんでした。

出張から帰り、西井茂雄社長に約定書を見せたところ、ある問屋様にダースあたり60円を値引いたことでお叱りを受け、再度の出張を命じられますが再交渉は難航します。
朝一番に到着しますがなかなか帰れず、結局夕方になったのを憶えています。

値引きは絶対にだめだと教育を受けていました。
問屋さんに約定書を渡すときは伝票番号と品名だけ書いておりましたが、これがだめと言われまして大変お叱りを受けました。
「5125綿60双糸スーパーシリコーン完全防水インダンスレン染」と明記するように指導され、この件でも再度名古屋に出張した記憶が蘇ってきます。

西井茂雄社長の自社製品売込への執念には敬服させられます。

変革の時を迎えて

名古屋出張はスーパーシリコーン完全防水加工のスナップ型・メトロ型が良く売れて大変有意義な出張でした。

ところが、あるころから得意先様より「いつもいつも同じような帽子だ」と嘆かれだします。
そこで新しい型“チロル型“を開発して、生地も今までのバーバリーから柄物のスラックス地·スーツ地を使用して作ってみましたところ売れ行きがよく、出張が楽しみになりました。
“ハンチング型“も始め、ビン皮にポリエステル100%のタフタを使用して汗ヨゴレを防ぎ、テープもポリエステルのテープを使用して縮みを0%にするといった細部への工夫も試みました。

また、市場の声として「紳士物だけでなくて婦人帽子をやってみては?」と言われ、徐々に婦人帽子も製作するようになります。
スタッフも婦人帽子経験者を集めて本格的に帽体・布帛の婦人帽を作るようになり、総合メーカーへと変貌していくことになります。
メンズはバタフライ(英語で蝶々)ブランド、レディースはパピヨン(フランス語で蝶々)ブランドで展開し、全国の帽子売場で大好評でした。

仕掛ける

西井茂雄社長は帽子協会の宣伝委員長として手腕を発揮され、いろんな仕掛けを行い帽子拡販に尽力されました。
例えば···

  • 一等は賞金10万円と電器製品・2等5万円・3等1万円が贈られる帽子コンクールを開催。(殆ど中央帽子出品商品が1位~3位迄を占めていた記憶があります。一度は全日本帽子コンクールで総理大臣賞をとって他のメーカーを驚かせたこともありました)
  • 百貨店で帽子ができるまでの工程を実演。(新聞・ラジオ・雑誌等で話題になりました。)
  • ファッションモール施設内で2日間にわたりファッションショーを開催。(構成は今も御健在の京都のデザイナー『アベック太郎』こと平野徳太郎先生です。)
  • ラジオ番組で「ヤンヤンハット」なる帽子を宣伝。(宣伝は株式会社大有社様にご協力いただきました。)
    内容はラジオ番組のプロデューサーが特別審査委員になり、各メーカーが帽子を出展してその中から「ヤンヤンハット」にふさわしい帽子を決めるといったものです。
    結果、見事中央帽子から出品したウエスタンハットが選ばれます。
    “YanYan”とフロッキーをして打ち出すと同時にラジオ番組という媒体に乗せて宣伝をしていただいたことで、このウエスタンハットが大変良く売れて他のメーカーの羨望の的になりました。
    中央帽子としては他のメーカーも作れるように「型紙も自由に使用していただいてかまわない」と言いましたが、製造には金型が必要で結局どのメーカーも作れないということになってしまい、大変心苦しさを感じました。

拡がってゆく帽子の世界

帽子事業もメンズ·レディース·チルドレンと、バラエティー化して多種多様になってきます。

ゴルフ·釣り·スキー·山登り·海水浴用·ウオーキング用等、用途も多様化し、生産を拡大するべく韓国へと目を向けていくようになります。
そして『韓国帽子』をつくり、まずは比較的製造工程が単純なメンズ帽子(コール天のアルペン型や柄物のチロル型といったものです)を作り始めました。

私は韓国担当兼任ということで韓国へも加工指図の為出張し、生地の仕入·付属の仕入れ等をして日本に帰ると商品の販売、といった感じです。
また東京出張所勤務も命じられ大忙しの生活ですが、毎日が楽しくルンルンの気持ちで仕事をすることができました。

韓国も順調に生産が上がりましたが、1ヶ月約5,000ダースできるようになった頃より商品が過剰になりだします。
オーダーをだすのが段々あれも過剰、これも過剰になってきて大変困ってしまいました。

ライセンスビジネスが始まる

折りしも「チャネラー」という雑誌に『流行学』という題名で「流行は簡単に解る」と書かれているのを読み、大変な衝撃を受けました。
著者はブティック経営と流行学の研究をされていた宮本悦也氏という方で、元松下電気通信KK様の企画をされていたとのことでした。

西井茂雄社長に話すと「すぐに行って教えてもらえ」となり、早速六本木の事務所を訪ねて流行学により次々と新しい帽子の開発をしたいと打ち明けました。
すると、意外な答えがかえってきます。
「貴社バタフライブランドでは大衆には受けないから、今後は今流行しているレナウン社のシンプルライフというブランドをサブライセンスでやらせてもらってはどうか?今の世の中の帽子に一番適しているブランドである、あたってみては!」というアドバイスでした。

帰社後、西井茂雄社長に言ったところ「ライセンスの話、早速行って使用させてもらうよう交渉しなさい」とのことになりました。
何度も何度も株式会社レナウン様の田中室長に交渉に行くも、なかなかOKをいただけませんでした。
が、約10回訪問した頃はじめてOKが出ます
このシンプルライフが中央帽子の起爆剤になり、猛烈な勢いで売れていきました。

ブランド作戦”だということで、次から次へとライセンスをしていただく交渉に走り廻ることになります。
次はラコステの三共生興株式会社様との交渉です。
ゴルフ等のスポーツ全盛時代の中、スポーツ全般に向くブランドということで一段とビジネスを成長させるきっかけになりました。
最初に仕掛けたのはパイル地で、サファリ型·メトロ型·キャップ型·ハンチング型と全ての帽子が大当たりします。

続いて西井茂雄社長からの指示で、シキボウ株式会社様から直接素材を買い付けるよう命ぜられたのですが、小さなメーカーとは取引しないとにべもなく断られました。
そこで西井茂雄社長は「銀行の頭取の保証をもらってくるから交渉せよ」とおっしゃられ、再交渉の結果直接取引をしていただけることになり、これが利益を生む源泉になりました。

その後は、ジバンシー·アーノルドパーマー·フィラ·コシノジュンコ等、数えきれないほどのブランドをライセンスしていただくことができました

三共生興株式会社様の御都合でラコステのライセンス契約は変更が発生しましたが、三共生興株式会社様から新たにダックスブランドをライセンスしていただけるようになりました。
また、シキボウ株式会社様に続きフジボウテキスタイル株式会社様にも素材を直接販売していただける様になり、“コーイニット”という大変に市場受けする商品を買うことが出来、この素材を使用した紳士帽子·婦人帽子共に売れました。

大阪国際万国博覧会

1970年(昭和45年)大阪国際万国博覧会が催されました。

はじめは帽子協会で会員が少量の帽子を販売していこうという話でまとまっていましたが、開催と同時に帽子が飛ぶように売れるではありませんか!
そこまで予想をしていなかった為、あわてて生産するも間に合わない状態が続いてしまいました。

約半年間予想を超える人が集まり、帽子業界にとっては千歳一隅のチャンスになりました。(万博入場人員は約6,400万人)
私も朝早くから夜遅くまで現地にて販売を担当し、人生でこれほど充実した年はなかったと思います。

商品倉庫は空っぽになり、生産して出来上がってくる帽子も右に左にすぐさま出荷していた状態で、アメリカ向け貿易で帽子を販売しておられたN株式会社様·有限会社O様等は、商品がないため買い付けができず非常に困っておられました。
何しろ1ドル350円から1ドル280円と急に円高ドル安が進んだために、輸出で帽子を販売されている帽子屋さんはさんざんな目に合われておりました。
私の方はというとその輸出向けに作られたけどもキャンセルされてしまった帽子を殆ど買い取って、万博会場で販売しておりました。

こうして万博博覧会のおかげで大変儲かった年になりましたが、その反動でしょうか、次年度はさんざんな年になってしまいました。

またまた走り廻る

1971年(昭和46年)中央帽子は夏物を主体に展開しておりましたが今後は冬物商品も展開していくことになり、冬の北海道·東北市場に向く商品作りの市場調査のため出張することになります。
札幌·旭川·帯広·稚内·北見·苫小牧·室蘭·函館と各地の百貨店·量販店·専門店を見て廻りました。

室蘭で道を歩いておりますと、本州では味わったことのない冷たい風と寒さで耳がちぎれそうになります。
しかしそのことで、本州で売れている帽子と北海道で売れるであろう帽子の違いが分かりました。
早速耳にカバーを付けたウインターキャップを完成させると、飛ぶように売行れていくではありませんか。
レザー帽子の充実等冬用商品の拡販をはかり、かなりの売れ行きになっていきました。

西井茂雄社長より「日本だけでなくヨーロッパへも行って、色々な帽子を見て参考にせよ」との命を受け、喜んで出張しました。
ヨーロッパ~フランス·イタリア·イギリス·ドイツ·フィンランド·スウェ―デンと見て廻っても、布帛の帽子は雑帽という扱いであまり参考になる帽子は見つかりませんでした。
ドイツにのみ参考になりそうな帽子があったのですが、かたく重くてだめでした。
唯一イギリスのロンドン展で帽子のトレンド帽子が展示されていたので見本に買って帰り、参考にしましたが成果にはつながりませんでした。

イタリアの名門ブランド

G帽子店様の故Y社長より、「ボルサリーノブランドをライセンスしてもらって日本のボルサリーノをつくれば、必ず日本人のお客様は喜んで買ってくれるはずだ」とアドバイスをいただきました。
早速ボルサリーノブランドを直接輸入なさっている近文商事株式会社様に話をするも、にべもなく断られてしまいます。

そこで西井茂雄社長は得意とする文章で中央帽子にライセンスしてくれとボルサリーノへ直接手紙を出し訴えます。(しかもイタリア領事館の通訳に訳してもいました)
それが相手の心に響き、早速イタリアボルサリーノ社長が来日して調印することとなります。

神戸ポートピア博覧会

1981年(昭和56年)3月20日~9月15日 神戸ポートピア博覧会が開催されました。

その前年より韓国帽子の仕事が減り始めます。
そこで西井茂雄社長は、ポートピア博覧会用にパイル地アポロキャップを作るよう私に命じられ、韓国帽子で12,000ダースを生産することになります。
収納用の箱も10ダース入りのものを用意し、収納スペースを浪費しないよう工夫しました。
そうして1981年のポートピア博に備え、帽子を作り込みました。

百貨店数社に販売する予定でしたが、ポートピア協会から「中央帽子の帽子は値段が高い」と言われ拒否されてしまいました。
懸命に品質の良さをアピールしましたがそれでもだめだと判断され、話は決裂してしまったのです。

「さあ大変だ。帽子はどんどん出来上がってくるし、でも帽子は売れないし」困ったことになってしまい西井茂雄社長に相談したところ「値下げは一切だめ。私が命令したので私が責任をとる。だから最後は焼くか捨てるかどちらかにするので君は全力で売れ」とおっしゃられ、私は会場で一般のお客様に販売することになりました。

毎日毎日ポートピア博会場へ行きますが、帽子が売れなくて頭をかかえておりました。
休憩しようと思い中央ゲートの所でカキ氷を買って食べていますと、そのカキ氷屋さんの主人が「君毎日来ているがどうしたんだ?」と声をかけてこられました。
帽子が売れなくて困っている旨を話すと、その方は「私が帽子を販売するためのスペースを作るからそこに帽子を並べて売ってあげよう」と助け舟を出してくださいました。
すぐにお代金をもらい、帽子を自動車から降ろして「それでは売って下さい」と頼んで会社に帰りました。

会社に帰ると「今日頂いた帽子は全部売り切ったので、明日は今日の倍の帽子を用意してくれ」と電話がありました。
翌朝一番に持っていくと、お客さんが帽子を求めて列を作っているではありませんか。
「値段が高くて売れない売れない」とあれだけ悩んでいたのに、何故売れているのか私にはさっぱり分かりませんでした。

こうなれば乗りかかった船です。
まず事の成り行きすべてを西井茂雄社長に報告しましたところ「君の好きなようにしなさい。私が責任持つから全部売ってしまえ!」とおっしゃってくださいました。
これで私は勇気100倍、氷屋の主人にどんどん帽子を売っておりました。

そしてその様子を陰から見ている人がいたのです。
後をつけてきていたようで、私が会社に着くやいなや「兄ちゃん、氷屋に売っていた帽子を自分にも売ってくれ」と持ちかけるてくるではありませんか。
「現金引き替えですよ」と言いますと「いくらでもお金はある」と言われ、次の日指定された通りに商品を運ぶと目の前で商品代金を渡されました。
そうこうするうちにこの方は倉庫に残っている商品も全て買い取ってくれました。

そしてこの素性の分からない人は仲間と協力し、許可なくポートピア博近くのモノレール3駅の駅前に陣取り、うまく連携をとって帽子の販売を始めました。
なんと、この素性の分からない人たちは氷屋の主人をはるかに上回る売上を上げていたのです。
この噂はすぐにポートピア協会の耳に入り、警察に通報される事態になってしまいました。

協会は大変に怒り、私にはすぐに説明に来るようにと連絡がきます。
神戸オリエンタルホテルの一室で、協会役員(全員帽子メーカーと問屋さん)約40名の方からの尋問が始まりました。
「なぜああいう素性のわからない人に売ったのか」「私は協会へ何度も買ってくれるようたのみましたが断られたではないですか」などと怒号が飛び交っておりました。

これを機に博覧会では一切出品しない方針になりました。

お世話になったお得意先様

その後、ボルサリーノ担当として全力投球で企画販売する日々が続きました。

G帽子店様とY社長(東京帽子協会理事)は、私の会社にアドバイスしていただいた関係や商品を目一杯買ってくださったことは言うに及ばず。
東京帽子協会の会合でも「ボルサリーノを買ってみては如何か」と他の得意先様に宣伝してくださること等があって、ぐんぐんと売り上げがあがっていくことになりました。

この当時はG帽子店様を参考に商品を仕入れなさるお店が多く、大変好評で売れていきました。
また東京ではG帽子店様のY社長は絶大なる信用がある存在のお方でした。
東京では国立大学を出て大王製紙株式会社の研究員として働いておられましたが、急にお父様がなくなられ急遽日本に帰国された経緯があり、帽子協会会員の皆様はY社長を応援なさったと聞きます。

しかしここで、私が中央帽子に入って一番残念なことを言わなければならないと思います。
それは、この頃からお世話になったお得意先様·問屋さんの倒産が相次いだことです。
非常に残念で悲しい思いでした。

現在の帽子業界の状況

10年間の帽子輸入実績 財務省関税調べ <表1>
数量(個) 金額(千円) 1ヶ平均単価(円)
2002年
(平成14年)
235,407,015 31,947,049 135
2003年
(平成15年)
246,838,018 33,159,221 134
2004年
(平成16年)
270,939,055 34,152,441 126
2005年
(平成17年)
287,761,845 37,748,740 131
2006年
(平成18年)
306,824,722 40,275,635 131
2007年
(平成19年)
311,035,096 40,249,260 129
2008年
(平成20年)
341,362,479 43,604,709 93
2009年
(平成21年)
336,232,466 38,811,756 115
2010年
(平成22年)
334,405,944 36,138,307 108
2011年
(平成23年)
357,839,989 40,052,678 111

以上の様に海外生産が増えており、その内訳は中国83% ベトナム5% タイ4% その他8%となっております。
1個平均単価も2002年には135円、2011年には111円と下がっています。

日本の帽子市場は帽子専業メーカー以外の業界からの参入が多く、今までの既成概念のない比較的若い方々が活躍して帽子業界を動かしています。
だからこそ「商品本来の良さの追求が大切であること」をぜひ理解していただきたいのですが、価格競争が激しくなりどんどん低価格へと向かっているのが現状です。
今日では、数量で99%が低価格品になっています。

全国帽子協会発表の国内の生産数量と金額(5年間のみ発表) <表2>
数量
(千個)
金額
(千円)
合計数
(千個)
合計金額
(千円)
平均単価
(円)
2000年
(平成12年)
紳士
18,233
婦人
26,945
14,245
18,646
45,178 32,891 728
2001年
(平成13年)
紳士
13,623
婦人
23,215
11,874
17,869
36,838 29,743 807
2002年
(平成14年)
紳士
14,461
婦人
20,516
11,691
17,491
34,977 29,182 834
2003年
(平成15年)
紳士
13,969
婦人
19,982
11,973
15,830
33,951 27,803 818
2004年
(平成16年)
紳士
11,574
婦人
19,658
8,081
16,720
31,232 24,801 794

国内生産は年々下がっていく傾向で、2005年以降はデータがありません。

輸入実績表<表1>と帽子協会表<表1>を比べると、いかに海外の輸入が増えているか一目瞭然です。
今は海外の安い商品が大半の状況であります。
2011年(平成23年)3億5,783個が海外の輸入品で、推定日本国内生産は900万個と思われます。
我が中央帽子の2011年(平成23年)生産実績も約150万個であります。

このような状況から考えますと、今はお客様の欲しがる高級商品を先回りして作り、丁寧に売っていくしか方法はないと私は考えております。

最後に

中央帽子には感謝感謝の一念です。

こんなに幸せに働かせていただき帽子業界では一番に恵まれたと思い、胸が熱くなります。
1996年(平成8年)会社の規定により定年となり、現在は嘱託社員として毎日勤めさせていただいております。

私は今年で75歳になります。
いつになるかは分かりませんが、会社を去る日が来ることでしょう。
しかし、私は一度きりの人生を命ある限り、目一杯帽子と共に歩いていきたいと考えています。

※現在「ラコステ」は(株)ファブリカ様よりライセンスをいただいております。
※現在「ジバンシー」·「アーノルドパーマー」·「コシノジュンコ」·「フィラ」·「ボルサリーノ」はライセンス生産いたしておりません。